銀行で働く人間も、被害者である私たちも、人間の直感に反する矛盾が一人歩きすることに、全ての人が傷ついているのだと思う。その理不尽を百も承知の上で、それでもなお、一家族の生活を破壊しても構わないと命令する資本の欲望とは何なのか?

どれだけ多くの人を傷つけようと、その欲望はいつでも不死鳥の如く頭をもたげ、強烈に私たちを誘惑する。一部の人間が踏み台にされ、その被害を目の端で憐れんでみるものの、増殖しようとする資本の濁流に全ての人は飲み込まれる。「これで本当にいいのだろうか?」。日常の中で常にそんな感覚にさい悩まされながらも、私たちは資本が与えてくれる快楽や刺激、優越感や多忙にその虚無を忘れたがるだろう。

そして搾取をはかる側の人間たちはこの濁流の中で、私たちのような被害に対する同情心を、自らの心の中で自分をだましつつ矮小化するだろう。「しょうがないことだったのだ」、そうやって彼らは私たちの痛みを低く見積もろうとするだろう。そして数字として現れる利益の前で、私たちの痛みは不可視化される。

私たちの被害もその濁流の泡ブクとなるのかもしれない。「何と理不尽な!」。しかしそう思った次の瞬間、こう気付くのである。この私たちに向かって立ち現れている巨大な暴力は、わたし自身の欲望もその一部を形成しているのだと。あれが欲しい、これが欲しい、もっと満たされたいという自分の内部に居座る欲望は、見えない連鎖の中で常に他者を搾取し、抑圧し、支配しているのだ。その欲望が組織を経由して増幅され、法の不備をいいことに、今度は、私たち家族に向けてその収奪を図ってきたに過ぎないのだ。

故に、私たち被害者の意識はより広い方向に開かれていかねばならないと思う。私たちのエゴの濁流の中で搾取され、抑圧され、殺されていくあらゆる「いのち」の声に耳を澄ませること。それはこのブログを読むあなたが、私たちの痛みに心を傾けることを要求すると同時に、私たち自身にも他者の痛みを直視することを要請する。そこに見えてこなくてはならないのは、少ない金でいろいろな物が欲しいという人々のエゴに使い捨てられる第三世界の労働者の姿かもしれないし、肉をいつでも食べたいという人間のエゴによって食べられるためだけに機械的に産み落とされる動物のいのちかもしれない。

この社会はそのような、直視すると苦痛を感じるものを必ず隠蔽しようとする。なぜなら、銀行の人間が実践するように、搾取による利益の最大化は他者の痛みから目をそらすことで可能になるからである。だからこそ経営幹部たちは私たちが銀行によって激しい苦痛を受けている、という事実へのアクセスを意図的に閉ざすシステムに守られている。しかしそのように、痛みを引き受けることから常に逃れてしまう事で、私たち人間は何かとても重要なものを喪失しているのではないか。

それは他者の痛みに真に共感するという、人間のもつ、心のそこから湧き上がる動物的で説明のつかない感情であり、そこから生まれる、「いのち」という神秘への敬意ではないか。私たちは日常生活にかまけ本当に苦痛を感じている人間の感情を低く見積もり隠蔽しようとしていないだろうか、私たちは肉として食べられる動物に心から感謝の念を抱けるだろうか?

私たちは、私たちの痛みを訴え続けなければならないと思う。沈黙を余儀なくされた同様の被害者のためにも。
おかしいものはおかしい、痛いものは痛い、それを声に出すこと、そして他者のそれを聞き取ること。その地点への視界が開かれていなければ、私たちは被害者は「被害者のエゴイズム」に没入してしまうだろう。社会も銀行も、そして私たちも、この痛みを直視しなくてはならない。