3月29日、サブプライム問題に関連し、ブッシュ政権が借り手救済策として公的資金投入を検討中というニュースが流れた。

日経 3月29日「米政府、住宅ローンの借り手救済に公的資金投入検討・米紙報道」
読売 3月29日「サブプライム借り手数千人対象、米政権が公的支援を検討」
ロイター 3月31日「ブッシュ米政権、住宅ローン借り手救済計画を策定=米紙」

米政府によるサブプライム問題への介入は、FRBによるベアー・スターンズ社への特別融資という倒産回避行動によって、「貸し手」救済がすでに一度行われているが、「借り手」救済となればその第二弾ということになるだろう。

様々なところで議論されていることだが、徹底した自由主義・個人主義を標榜するアメリカにとって、今回のような市場に対する政府のあからさまな介入は大恐慌以来のものである。そしてFRBなど関係省庁の権限強化(読売 4月1日)による市場監視・管理の流れは、今回の危機がサブプライムローンというハイリスク金融商品の氾濫によって深刻化した以上、もはや避けがたいようにみえる。(そもそもポールソン財務長官というブリブリの実業家上がりの政治家が、そのような統制経済に近い社民的金融改革を主導していること自体が象徴的である)

重要なことは、そのようなアメリカ政府の市場に対する態度の歴史的転換過程において、「借り手」救済が早くから議論されていることである。たとえば最も大胆な公的介入論を展開するクリントン上院議員は「金融当局は(証券大手)ベアー・スターンズの崩壊を避けるため300億ドルの命綱を差し出したのに、一般の住宅保有者はほとんど支援を受けていない」(朝日 3月28日)などとして、債務者保護を強調している。

これに比して、日本のバブル崩壊後の公的介入は、完全に「金融システムの安定化」という命題のみが優先された。つまり、「貸し手」側である銀行の救済しか日本の政治家、当局者の目には入らず、「借り手」はまったく無視されたのである。当時、後手後手に回っていた巨額の公的資金投入の決断を主導したとして自信満々でいる渡辺喜美現金融大臣は、さもアメリカ政府は私に相談に来なさい(ロイター 2月12日)、といった風でいるが、渡辺大臣は「借り手」救済などまったく視野外だった人物である。(その証拠に「借り手」側の被害については「まだこういうことが終わっていないんだという感想を持った」(2007年11月6日参議院財政金融委員会)で終わりである。金融大臣という立場であるならば、リーダーシップをとりさえすれば私たちのような銀行被害など簡単に食い止められるにもかかわらず、まるで他人事のように言って終わりなのだ)

言いたかったことは、自己責任絶対主義の国であるアメリカでさえ、「借り手」救済が具体化に向けて動き出しているにもかかわらず、日本では「貸し手」としての銀行の大規模救済は行われても、「借り手」救済など皆無に近かったことである。なおかつ、サブプライムローンの債務者たちの多くは収入に見合わない住宅をローンで購入した層である。私たちのケースの場合、戦前からある自宅を守るために有効だと銀行が執拗に自宅訪問を繰り返して巨額融資を持ちかけてきたのである。しかも、保証人夫婦の学生時代の友人である銀行支店長がである。

それでも、日本政府は「借り手」救済を行わないし、私たちのような被害に無関心でいる。バブル崩壊に政府は責任はなかったとでも言うのだろうか。
そして相変わらずみずほ銀行は説明責任すら果たさない。立法、行政、司法に関わるすべての人に問いたい。これが公正な社会であるのか、と。

あまりにもおかしくないだろうか。